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考えつづけるための備忘録

第92回日本社会学会大会

2019年10月5日(土)〜6日(日)にかけて東京女子大学で開催された、日本社会学会の大会に参加してきました。報告はなかったので、完全に聞く側での参加です。

 

■1日目午前

「福祉・保健・医療」の部会と、「歴史・社会史・生活史」の部会に参加しました。

とくに印象深かったのは、後者の部会で拝見した福岡安則先生の報告です。ハンセン病回復者およびその家族からの聞き取りをもとにした内容でした。内容自体も興味深かったのですが、それ以上に、口頭で補足される調査の背景的な情報や、その語り口そのものから、福岡先生が取り組んでこられた研究の重厚さが伝わり、とても感銘を受けました。70歳を過ぎてもなおカラオケボックスで聞き取りを行い、「私は論文一つ書かず、聞き取りだけをやってきた」と話す福岡先生の姿から、研究者(社会学者)の1つのあり方の極致を見たような気がしました。

 

■1日目午後

「地域社会・地域問題」の部会では、赤川学さんたちが川崎市で行なってきた地域包括ケアシステムに関する調査報告を聞きました。傾向スコア分析などの高度な分析手法が取り入れられており、計量分析の手法を勉強する必要性を改めて痛感しました。他方、社会疫学などで用いられる分析手法を社会学でも取り入れるべきといった主張をする赤川先生に対し、司会の玉野和志先生が、「今回の分析は垂直的ネットワークへの参加という変数を用いているが、たとえば町内会に加入していることの社会的意味の違い(そこで威張っているのか、それともただ加入しているだけなのか)をどのように測定するのかといった観点から、社会学が貢献できるのではないか」とコメントされる場面がありました。分析手法の高度さにおいて後れを取りがちな社会学における独自の貢献の可能性を考えるうえで、大変示唆的な発言であると思いました。

「産業・労働・組織」の部会では、中川宗人さんらの報告を拝見しました。教科書の通時的な分析から特定のディシプリンの趨勢を探るというアプローチは、自分の分野においても有用かもしれないなどと思いながらお話をうかがいました。

なお、ある部会では、優れた研究をされている高名な先生が、大学院生の報告に対して暴言に近いコメントをする場面に遭遇しました。私の理解では、報告の中で使われていたある用語(ここでは仮にxとしておきましょう)をめぐって、報告者とコメントした先生とのあいだで理解の食い違いが生じており、報告者がその理解のずれについて十分説明できないということが起きていました。とはいえ、そのような理解のずれを確認しようとするのではなく、「あなたは○○がxであると言いますが、それはxではないでしょう」と声を荒げながら言い放ち続けるその先生の姿を目にして、非常に辛く残念な気持ちになりました。

 

■2日目午前

2日目は、テーマセッション「創造性・芸術性と労働をめぐる社会学」のみに参加しました。あまり馴染みのないテーマで個々の報告を理解するので精一杯という感じでした。ただ、いくつかの報告では、データとして提示される語りなどからは必ずしも読み取れないような「過剰労働」や「搾取」の実態が論じられており、そうした「過剰労働」や「搾取」という意味付けがいかなる立場/目線からなされているのか疑問に思うこともありました。また、報告者たちはそれぞれ異なる事例(アニメーター、アイドル、バンドマン、建築家など)を取り上げていましたが、総括討論の中で、各報告における知見が創造性・芸術性をもつ労働者一般にどれほど当てはまると思うかという質問がフロアから出ていました。この質問に対し、アニメーターを事例としていた松永さん以外の報告者はいずれも、多かれ少なかれ他の労働者にも当てはまるという趣旨の応答をしていたのが印象に残りました。

宮本隆司さんとの出会い

今日は、写真家の宮本隆司さんとはじめてお会いした。

宮本さんが開催している首くくり栲象さんの追悼写真展をパートナーと見にいったときに、その場に1人でいらっしゃったのである。

首くくりさんがパフォーマンスをしていた家で写真をみたあと、宮本さんも一緒に3人でコーヒーを飲みながら、1時間以上おしゃべりしていた。

宮本さんは、もともと住宅建築の雑誌の編集をしていたが、中野にあった刑務所の取り壊し場面を写真で撮ったことをきっかけに、廃墟——建築が取り壊されていく過程の写真を撮るようになった。

彼は、かつて香港にあった有名なスラム街、「九龍城砦」の写真も撮った。この九龍城砦は、12階建てのビルに形成されたスラム街で、自分が生まれた直後の1993年ごろから解体がはじめられたらしい。ちなみに宮本さんによれば、この九龍城砦を舞台としたテレビゲーム「クーロンズ・ゲート」のデザインは、宮本さんが撮った写真をもとにしているらしい。

その後、宮本さんはホームレスの人びとがつくった段ボールハウスの写真も撮るようになった。彼は日本だけでなく、海外でもホームレスの家の写真も撮ったらしいが、おもしろかったのは、日本のホームレスが段ボールハウスに入るときにきちんと靴を揃えて脱ぐという話。海外のホームレスは靴なんて脱がないらしい。たとえ段ボールハウスであったとしても、ホームレスの人びとにとって家は家であり、家では靴は脱ぐものであり、それは習慣化されているんだ、と宮本さんは言った。

それから、私たち3人は大学の話をした。聞くところでは、宮本さんの息子さんも自分と同じ大学の同じ学部に所属しているらしい。その子は1人息子で、まだ何になりたいといった目標をもっておらず、宮本さんのように写真家や芸術家になりたいといった素振りも全然見せないらしい。いまは4年生で、就職活動をしている。宮本さんは、息子さんと同年代である自分たちをみて、研究者を目指している君らのような人びとはすばらしい、と言っていた。自分が、就職するなかで何か自分がやりたいことが見つかるといいですよね、と言うと、宮本さんは、うんうん、と頷いていた。

彼とは社会学の話もした。山極さんのゴリラ研究の話もした。いろいろな話をして、今になってはその詳細は思い出せない。

しかし、話していたときも、いまそのときを思い出してみても印象的なのは、彼がいたって普通の(少々年配の)男性であるようにみえたということである。話が終わったあとに彼の名前をwikipediaで調べると、どうやら紫綬褒章をもらっている人らしい。一角の人物である。しかし彼との会話はそのようなことを微塵も感じさせず、ただ楽しく、時間が緩やかに、それでいてあっという間に流れ、なんとなく終わってしまうのが惜しいような、そんな会話であった。

写真展は来週までやっているとのことなので、また行ってみようかと思う。今度は、手土産にお菓子を、そして蚊に刺されないように虫除けを一緒に持って行こう。

「帰りたいけど帰れない」 孤老たちをまなざす

某ゼミで、NHKアーカイブスに収録された以下3つのルポルタージュ、ドキュメンタリーを観た。

個人的には、1つめの「『帰りたいけど帰れない』 ―釜ケ崎の孤老たち―」が特に印象深かった。この番組は、1950年代から80年代にかけて、大阪のあいりん地区(通称「釜ヶ崎」)をフィールドに写真家として活動してきた井上青龍が、1980年代初頭に同地区で生活する高齢者たちに話を聞く様子を記録したものだ。

そうした高齢者のうちのひとりの男性は、長らく顔をあわせていない故郷の家族への手紙をしたためながらも、それを送ることができていない。井上が読みあげた男性の手紙の文面には、次のような言葉が含まれていた。

「まだ、ひとさまの迷惑にはなっておりません。」

故郷から離れたドヤ街でひとり、決して豊かとはいえない生活を送りながらも、みずからの家族にたいし、他人の世話になっていないことを弁明する。いったい何が彼にそうさせるのだろうか? なぜ彼は、他人の世話になっていないことをことさら誇示しなければならないのだろうか? 逆にいえば、なぜ彼にとって、他人の世話になることは誇らしくないこととされているのだろうか? ここには、とりわけ日本における福祉なるものを考えるうえでの重要な問いがあるように思われる。

番組のナレーションも務める井上は、こうした高齢者たちの生活を目の当たりにしながら、次のように話す。

「ある条件がそろえば、俺もこうなってしまうという危機感がいつもある。」

あいりん地区で長らく活動してきた井上にとって、そこで暮らす人びとの「こう」した生活のありようは、ある種の条件のもとで必然的にもたらされた、ある意味で合理的な結果である——つまり人びとの不合理な選択の結果ではない——ようにみえるということを、この発言は示しているだろう。

 

黄色いおじさん

私が住んでいる町の街中には、黄色い服を着たおじさんがいつもたくさんいる。

彼らは、路上に停められた自転車を見つけてはシールを貼り、しばらく時間が経つとその自転車をトラックに乗せて撤去してしまう。この意味で、自転車を使う人びとにとって彼らは天敵である(自転車は駐輪場に停めればよいと思われるかもしれないが、多くの人にとって、ちょっとした用事のためにわざわざ目的地から距離が離れた駐輪場に自転車を停めに行くのは大変億劫に感じてしまうのである)。実際に私も数回ほど、おじさんたちの手によって自転車を撤去されたことがある。

今日も今日とて、私は駅前のうどん屋の前の路上に自転車を停め、のんびりとうどんを食べていた。食べ終わって自転車のところに戻ると、ちょうど件の黄色いおじさんのひとりが自転車を動かしているところだった。

黄色いおじさんのなかには、路上駐輪をした人にたいして嫌味を言ったり、叱責してきたりする人もいる。「ここに駐輪禁止って書いてあるよね? ね?」と詰め寄っているおじさんの姿をこれまで何度か目にしたことがある。

そうした諸々を思い出し、気まずいなあと思いつつ、私は「それ、僕の自転車です」とおじさんに声をかけた。おじさんは、「ああ」と言って、私に自転車を譲り渡した。私はそそくさと、自転車に貼られたシールをおじさんの眼の前で剥がす。おじさんが嫌味を言う隙を与えてはならないと思ったのだ。

すると、おじさんは「飲んできたのかい?」とおもむろに私に声をかけた。嫌味や叱責の言葉が飛んでくるのを半ば予想していた私は拍子抜けしつつ、「いえ、そこのうどん屋でうどんを食べてました」と、うどん屋の入り口を指差した。

「おお、そうかい。このうどん屋っていつできたっけね?」とおじさんは再び私に問いかける。「去年の年末くらいですかね」と私が答えると、おじさんはさらに話をつづけた。「僕もね、ここのうどん屋にはよく行くんだよ。××市(=私が住む町であり、私とおじさんの2人がそのときいた町)のではないけどね」「ここのうどん屋のセットメニューがあるじゃない? 650円くらい? アレをよく頼むんだよ」とおじさんは立て続けに話した。黄色いおじさんとこうした会話をした経験があまりない私は戸惑いつつ、「そうなんですか、安くていいですよね」などと、おじさんの話に相槌を打った。

話に一区切りがついたように思われたところで、私はそこから立ち去ろうと、「それじゃあ、お疲れ様です」と声をかけた。するとおじさんは、「うん、どうもね」と応えた。ちょっと歩いてからうどん屋の前のほうを振り返ると、おじさんはすでに反対方向に向かって歩いて行ったらしく、その姿はもう見えなかった。

私は歩きながら、黄色いおじさんとの会話について考えていた。路上駐輪という「ルール違反」を犯した者にたいして高圧的に対応してくるのがあの黄色いおじさんたちの通常のふるまいだと思っていた(だからこそ、私は彼らにたいして敵対心のようなものを抱くこともあった)。しかし、今回会ったおじさんは、驚くほど楽しげに私に話しかけ、さらには「どうも」という感謝の言葉のようなものを告げたのであった。なぜ彼はあんなに私に楽しげに、また親しげに話しかけてきたのだろうか。

一方で思ったのは、彼らは私たちが考えているほど、「黄色いおじさん」の役割を演じているわけではないということである。私たちは彼らを「自転車を撤去する(迷惑な?)人たち」とみなしているが、彼らは、たとえそのとき黄色い服を着ていようとも、自分たちをそのようにはみなしていないかもしれない。

他方で、今回私に話しかけてきたおじさんは、ただ誰かと話したかったのかもしれない、とも思えた。こちらが驚くほど親しげな口ぶりからは、他人と会話することのよろこびのようなものが感じられた。これは極端な推測かもしれないが、彼は普段それほど他人と話す機会がなく、もしかすると今日の私との会話は彼にとって久しぶりの会話だったのかもしれない。

あの黄色いおじさん、またおじさんたちは、一体どのような人たちなのだろうか。黄色い服を着ていないとき、彼らは一体どのような人たちなのだろうか。そして何より、なぜ彼らは黄色い服を着ているのだろうか。

歩く私の頭のなかには、こうした疑問が渦巻いていた。このとき、私にとって黄色いおじさんは、「敵」ではなく、かといって無関心のなかに没落するわけでもなく、ともにこの社会で生活しているひとりの人になっていた。